
国際通りは、パレットくもじ前交差点から安里の三叉路までの1.6kmです。ここが、沖縄一の繁華街、那覇市のメインストリートです。
現在国際通りには、デパートやホテル、観光みやげ店、レストラン、カフェ、居酒屋など色々なお店が立ち並び、夜の遅い沖縄でもひときわ遅くまで人通りが絶えません。
戦後、国際通りは沖縄の復興を象徴する奇跡の1マイルとよばれたこともあった。
この、国際通りは、戦前から沖縄を代表する通りだったわけではなく、通りの中ほどにある公設市場など、田畑に墓地が点在するようなただの湿地帯だった。
沖縄戦後すぐに、この辺りで「戦果」と「体当たり」という言葉がはやった。男たちはアメリカ軍の物資集積所に忍び込みあらゆる物資を盗み出した。
これが、「戦果」である。窃盗は射殺御免の警告の中でもやむことは無く、それは生き延びるためために命を的にした戦争だった。
一方で女たちは、男たちの「戦果」を助けるため、あるいは自らが生きるため、体を投げ出してアメリカ兵を誘惑した。これが、「体当たり」である。
とにかく、戦果は凄まじく、食糧、軍服、医薬品、ガソリン、毛布、タバコ、銃器類など手当たりしだい盗み出した。
1946年10月4日付けの石川市(現うるま市)で創刊された米軍の宣伝情報機関紙「うるま新報」によると「守礼の邦といわれたわが沖縄も、
いまや窃盗の邦と呼ばれても文句のない恥さらしの、実に無謀極まる集団窃盗の事実が発覚した。」
「荷物を調べた処機関銃が二丁発見された」普天間や島尻付近数ヶ所の米軍需品集積所の甚大なる窃盗被害・・・
現場の被害状況を検分したが、部品を抜き取られて、山積する武器類の残骸・・・実に惨憺たる有様だ。軍需品のすべてが梱包は破壊され、
防水シートは剥ぎ取られ、破壊された箱からは新しい機銃や手榴弾が持ち出されて泥のなかに散乱しており、ずらり並んでいる戦車は、片っ端から
バッテリーや貴重な部品が取り出され、一台も余すところなく使用不能にしてある。」これほどの「戦果」を上げるのは組織的なプロ集団の仕業だった。
沖縄戦を振り返ると、沖縄の地上戦はたった三ヶ月に過ぎない、米軍の本格的な沖縄攻撃が始まったのが1945年3月23日の早朝、4月1日に沖縄本島に上陸、
6月23日には一切の攻撃は終わっていた。そのたった3ヶ月の間に兵士と沖縄県民20万人が犠牲になったのである。
3ヶ月前までは緑豊かな沖縄が3ヵ月後には沖縄県民すべてが米軍からのわずかな配給で命をつなぐ難民になってしまった。
一切を破壊され、飢えに苦しむ民衆の目の前に、まるで盗んでくださいと言わんばかりに米軍の豊か過ぎるほどの物資が鉄条網の中に築かれていた。
「戦果」は、沖縄の民衆の怒りが爆発したものであり、「体当たり」は、生きる為とはいえ、悲しすぎる自暴自棄だった。
その「戦果」と「体当たり」により、物資が闇に流れはじめ、戦前から湿地帯だった一本道に闇市が出来、そこに米軍が物資輸送のために道を通した。
それが現在の国際通りである。
廣済堂出版 沖縄謎とき散歩より引用
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